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キャンディーズ(Candies)は、1970年代に活躍した日本のアイドルグループである。
メンバーは、ラン(伊藤蘭、1955年(昭和30年)1月13日)、スー(田中好子、1956年(昭和31年)4月8日〜2011年(平成23年)4月21日)、ミキ(藤村美樹、1956年(昭和31年)1月15日)の3人。
所属事務所は渡辺プロダクション。
多くの楽曲は、当時渡辺音楽出版社員であった松崎澄夫(現・アミューズソフトエンタテインメント代表取締役社長)のプロデュースによるものである。


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1. 略歴

1.1 スクールメイツ〜デビュー当時

3人のスクールメイツ時代のステージ.jpg

3人とも東京音楽学院のスクールメイツ出身。1972年(昭和47年)4月に、NHKの新番組「歌謡グランドショー」のマスコットガールとして3人揃って抜擢され番組プロデューサーから「食べてしまいたいほどかわいい女の子たち」を意味して「キャンディーズ」と名付けられた。
マスコットガールとは言え雑用アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)に過ぎず、歌手デビューの予定はなかった。しかし歌謡グランドショーに出てしばらくたった頃、東京音楽学院をたまたま訪れた松崎澄夫が、教室に入ってきたキャンディーズの3人を見て「かわいい子がいるなあ」と目を止めた。
松崎が音楽学院の担当者にレコードデビューの有無を聞くと、「まだです」との返事が返ってきたので、松崎はそのままキャンディーズの歌手デビューを決定した。
1973年(昭和48年)9月1日「あなたに夢中」で歌手デビュー。

デビュー前から人気バラエティ番組「8時だョ!全員集合」にレギュラー出演するも、しばらくはヒット曲に恵まれなかった。
当時の人気アイドルは妹的イメージで売り出すことが多く、キャンディーズも初めはハイトーンボーカルのスーをセンターでメインボーカルに起用し、この路線で売っていたが期待したほど売れなかった。

1.2 人気歌手〜絶頂期へ

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マネージャーである諸岡義明が、三人の中でランだけファン層が異なる(お姉さん的)事を発見し、諸岡の提案により5枚目のシングル「年下の男の子」(1975年発売)で方針を転換。
「お姉さん」的キャラクターのランをセンター・メインボーカルに据えて前面に出し、これが当たって初ヒットとなった。以降のシングルでは、「わな」がミキのセンターである以外は、すべてランがセンターを務めた。
その後も個性の違う3人という組み合わせや、「8時だョ!全員集合」や、「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」などのバラエティ番組でコントまでこなす積極的なテレビ出演と、愛らしい振り付けを交えた数々のヒット曲により、幅広い人気を獲得した。

遅れてデビューしたピンク・レディーとはライバルともいえる関係になったが、デビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を獲得したピンク・レディーに対し、レコード売り上げ等は劣勢だったが
真の意味でスターと言えるのは30年経った今歴然としている。

1.3 解散

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人気絶頂時の1977年(昭和52年)に突如解散を発表。同年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートでの発言「普通の女の子に戻りたい」は非常に有名で、流行語になっている。

2008年7月13日にYOUTUBEにアップされていた資料

【デビルキャラバン千秋楽を翌日に控えた1977年4月9日、当時の大里洋吉マネージャーに解散の気持ちを打ち明け(大里さんはラン、スー、ミキをそれぞれソロでも活動させる作戦を立てたが、
渡辺晋社長につぶされ、その後ナベプロを退社、独立)6月23日に は渡辺プロダクションの渡辺晋社長に会って正式に解散を申し入れたキャンディーズは、 翌日24日に松下治夫制作部長
(渡辺プロ側のキャンディーズとの直接交渉役、7月18日メイツでの緊急記者会見に同席し会見の冒頭で「引退」と口にした人物)に同じ申し入れをした。
そして6月30日には渡辺プロに配達証明つきの封書が彼女たちから届いている。契約が9月30日で切れるがそれ以降再契約する意思が無いという通告である。
渡辺プロとキャンディーズの契約は1年契約で、毎年更改する。もしどちらかに再契約する意思が無いときには、契約が切れる3ヶ月前に相手に通告しなければならないという一項が契約書に
明記されていた。キャンディーズの契約が切れるのは9月30日なので、彼女たちはその3ヶ月前である6月30日に「辞めたい」という意志を書類で伝えたのである。
その後7月4日に2回目の会談が行われ、そこで松下部長は「来年の3月までスケジュールが入っている、それまで続けて欲しい」と説得、が3人の返答は頑として「9月いっぱいで辞めたい」の一点張り。
両者の話し合いは平行線のまま終わる。次に3回目の話し合いが持たれたのが7月14日。色々な意見は交わされたものの進展は得られず、「解散は了承する、しかし、その時期についてはあと何回か話し
合って煮詰めて行こう」との 松下部長の言葉で会談は終了した。
両者のスケジュールの都合上、次回の話し合いが8月に入ってしまうのはどうしても避けられなかった。そして3日後の7月17日日比谷野外音楽堂サマージャック77の初日を迎える・・・。】

この文書は当時公開されたものとされるが、「当時の大里洋吉マネージャー…」等と記述されるあたりにオリジナルの文書に後日一部添削の痕跡が見られ、何かの折りに都度公開される文書のようにも 見受けられる。

この解散発表によってキャンディーズの人気は沸騰し、ラストシングルの「微笑がえし」では初めてオリコン1位を獲得した。
このためキャンディーズは解散によって人気を盛り上げたと言える。

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1978年(昭和53年)4月4日、当時空前であった後楽園球場に5万5千人を集め、マスコミが歌謡界史上最大のショーと呼び、日本でもザ・ピーナッツさよなら公演以来2例目となるお別れコンサート(ファイナルカーニバル)が行われ、4年半の活動に終止符を打った。
この模様は全国にテレビで中継され、高視聴率を獲得している。最後に述べた「私たちは幸せでした」の口上も有名。
コンサートの最後に歌われた「つばさ」は先に解散を知った全国キャンディーズ連盟の有志が作った「3つのキャンディー」という歌への返歌として伊藤蘭が作詞したものである。
歌う前に伊藤が「やはりこの歌を歌いたい」と言ったのはそのためである。
その後は公に一度も再結成をしていない。


1.4 解散後

●伊藤蘭は、俳優水谷豊と結婚。現在は女優として活動中。キャンディーズ結成前から自身の夢は女優と言っており将来のビジョンが一番ハッキリしていたので解散後一番早く復帰したのも頷ける。

●田中好子は、復帰後ソロでの音楽活動を行いシングル「カボシャール」などをリリース。おもに女優として芸能活動を展開。平成3年に実業家の小達一雄氏と結婚。
翌年には乳がんを発症するも女優活動を続けていたが平成22年10月頃より再発し、平成23年4月21日 午後7時4分 乳がんのため入院先の国際医療福祉大学三田病院にて死去。 享年55歳であった。

●藤村美樹は1983年(昭和58年)にソロ歌手として期間限定で復帰し、カネボウ春のキャンペーンソング「夢・恋・人」(シングル、アルバムともに同名)を発表、マスコミにも取りあげられ、ザ・トップテンにも10位にランクインしスマッシュヒットとなった。
以降、芸能界の表舞台には出てきていない。復帰当時実業家と婚約中で後に結婚。

2. キャンディーズの頭上に輝いた各賞一覧

・FNS歌謡祭'76音楽大賞優秀歌謡音楽賞
・第3回横浜音楽祭横浜音楽祭賞
・'76あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭ベスト・アクション賞
・第7回日本歌謡大賞連盟賞、放送音楽賞
・第4回東京音楽祭国内大会シルバー・スター賞
・第5回東京音楽祭国内大会ゴールデン・スター賞
・第8回ラジオ音楽賞ベストテン歌手

3. キャンディーズの音楽性

※キャンディーズの音楽性を詳しく正しく解説してくださる方は書込み&情報提供をお願い致します。

4. 解散への軌跡

・「キャンディーズ」とは本来ラン・スー・ミキのグループユニット名であるが、これに3人を支えた関係者、および全国のファンが一体となったムーブメントこそが「キャンディーズ」だったという見方もある。
・日比谷野外音楽堂の解散宣言直後、メンバーの3人は改めて記者会見に臨み、およそ9ヶ月後の1978年4月4日に正式に解散することを決めた。
 当初はファン、関係者とも賛否が分かれたが、「キャンディーズの三人が解散を望んでいる以上、それを支持する」ことで意思統一が図られた。
 後にそれは誰からともなく「最高の状態で解散する」ことへと気運が高まり、そのためには今まで獲得していなかったオリコンチャート1位をとることが最終目標となった(それまでの最高位は「春一番」「わな」の3位)。
 このような状況下でラスト・シングル「微笑がえし」の作詞を担当した阿木燿子は、キャンディーズの集大成となるよう、それまでのA面タイトル(春一番、わな、やさしい悪魔等)を歌詞の随所に散りばめた。
 またレコーディングの際、ちょっとした逸話がある[1]。

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・「微笑がえし」が発売されてからは、主に全キャン連がこのラスト・シングルを1位にしようとラジオ番組で広報につとめたり、一部の地域では一人2枚以上の購入を呼びかける動きもあった。
 「微笑がえし」は春の別れと旅立ちをイメージした普遍的な名曲であり、一般層をも巻き込んで解散直前の1978年3月12日、ついに念願のオリコンチャート1位を獲得する。
・ラスト・シングルでキャンディーズ自身最初で最後の1位を飾り、文字通り最高の状態で解散を迎えることが出来たのはメンバーの3人に起因するところのみならず、前述の通り解散宣言からラスト・シングルまで関係者やファンまで全てが一体となって
 即ち全てが「キャンディーズ」なる現象と化したためとの一考がある。





5. エピソード等

・引退までの期間に全国をコンサートツアーした(「ありがとうカーニバル」)。
 これはいわゆる引退記念興行路線であり、これは後の山口百恵を始め、大物歌手やロックバンドの解散時に恒例のものになっていった(この形式での興行は1975年のザ・ピーナッツが最初と言われる)。
 リリースするレコードも、刻々と迫る引退を視野に入れた内容になっていった(「わな」はその例である)。この時、ずっとメインボーカルの機会がなかったミキに、1曲のみとはいえメインの座が与えられた。
 15枚めのシングル「アン・ドゥ・トロワ」は作曲者の吉田拓郎もセルフカバーしているが、拓郎版では曲の終わりに「さよなら、キャンディーズ」と歌っている。
・当時のコンサートでは客席から多数の紙テープが投げられていた。
 ファンはキャンディーズが怪我を負わないように、予め紙テープの芯を抜いていたが、それでもステージ上に大量に蓄積された紙テープが足に絡まり、細かい切り傷が絶えなかったという。
「哀愁のシンフォニー」のサビの部分で、客席から一斉に紙テープが投げられるシーンは圧巻。当時「後楽園球場に屋根ができた!」と比喩されたがものだが5万本の紙テープは言葉にならない程凄かった。
・キャンディーズが活躍していた時代、ラジカセが普及し始めた。当時のラジカセはオープンリールと比較すると、音質に難は有ったが安価であったため、若年層に好まれた。
 コンサート会場に観客がラジカセを持ち込むことが認められていたと記述しているサイトもあるが、これは誤りで当時でも明らかに著作権法違反であり、実際に会場受付や場内で没収されていた。
 観客の入場者数が多く、ラジカセを没収しても保管場所に困る会場の場合に係員が見て見ぬふりをしていたに過ぎない。  蔵前国技館のキャンディーズカーニバルVol2あたりから事実上規制が厳しくなったが、ファンの方もいろんな方法を使って会場内にラジカセを持ち込み、多くのコンサートの模様が録音され後世に残されている。
・日本初の、全国組織型ファンクラブ「全国キャンディーズ連盟」(「全キャン連」)を持ったアイドルとしても知られる。
 なお、当時のファンには学生運動崩れの武闘派も多数いた。現在アイドルのコンサートで行われているオタ芸の原形もメジャーなアイドルの中ではキャンディーズが元祖である。
 デビューから数曲の間は8時だョ!全員集合等で新曲を披露しても殆どメンバーの名前などを叫ぶコールがなかったが、その気にさせないで辺りからコールが激増した。
・同一事務所に所属していた太田裕美もキャンディーズのオーディションに参加しており、メンバーになる可能性もあった。もし実現していれば、ラン・スー・ミキに倣って「ヒロ」と呼ばれていたであろうと言われている。
・同一事務所に所属していたザ・ピーナッツから衣装をプレゼントされたが、2着しかなかったのでもう1着をザ・ピーナッツ側が作成して用意した。
・キャンディーズの妹分として結成されていたキャンディーズjrというグループがあったが(同じ事務所)、キャンディーズファンから「違和感がある」という声が多かったためキャンディーズ解散前にトライアングルに改名した。名付け親はキャンディーズである。
・各仕事によりかなり違ったキャラクターを見せていた。歌番組やゲスト出演ではアイドルらしくしおらしい受け答えをするが、ラジオ番組ではくだけた言葉遣いで、台本とは言え下ネタも口にするなどかなり弾けたキャラクターである。
 もっともスタッフや出演者が多いテレビと違った、ラジオ番組独特の親密さゆえのリラックスした姿であろう。
 ライブのステージにおいてはファンに対してはありがちなタメ口ではなく「皆さん、ノってくださーい!」と言った具合に、ライブのノリの良さにしては丁寧な言葉を使っている。
 ただし現在の一部のアイドル見られるような過剰なリップサービスをせずに最後に掃けるときも「ありがとうございました」「また逢いましょう」等と定例文型を述べるに留まっていた。
 唯一例外として、後楽園球場におけるファイナル・カーニバルの後半では、3人のMCが一部くだけた口調になっていた。
・全盛期当時既に大学生世代であったメンバーではあるが、週刊誌の対談などでは処女である事を強調していた。
・三人それぞれのイメージに関しては、「妻にするならスー、恋人にするならラン、秘書にするならミキ」との評があった。
 松下治夫の著書には「蘭は気丈なタイプ、スーはおっとりしたタイプ。」と書かれていた。
・女性グループとしては非常に珍しい事に、3人で仲が良い。仕事で常に3人一緒にもかかわらず、ツアー中のホテルではツインにエクストラのベッドを入れてもらい、同じ部屋で寝ていたという。
 まれに連休が取れると、3人で泊りがけで旅行に行った(3人だけでなく、友人も同行することがあった)。ケンカもしたことがないんだって?という質問にランは「2人の気持ちが分かりすぎるから」と答え、ミキは「感情的に姉妹以上になってる」と語っている。
 現在でもプライベートでたまに集まる事があると田中好子(スー)が最近(2006年、2007年)のテレビ番組で、伊藤蘭がラジオ(2007年)で語っている。
・2007年(平成19年)に公開された映画『Little DJ〜小さな恋の物語』では、劇中「年下の男の子」が物語の重要なキーとなる楽曲として登場し、シングル盤も小道具として用いられた。
 「年下の男の子」は同作品のサントラCD(アミューズソフトエンタテインメント)にも収録されている。
・各々が名前を紹介した後に「○○て呼んでください」といい最後「3人合わせてキャンディーズです」という定型の自己紹介があり、後に多くのアイドルグループにこのパターンが模倣された。
・松下治夫の著書には公式に渡辺プロダクションが手がけた最初のアイドルはキャンディーズであると記されている。また前述のとおり初期のころの売出しにはNHKの歌謡グランドショーの協力も大きく貢献している。

6. 外部リンク

7. 出典、参考文献

・『ばいばいキャンディーズ キャンディーズ百科』 ペップ出版、1978年
・『CANDIES HISTORY』(CDボックス)付録ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント、1998年
・野地秩嘉『芸能ビジネスを創った男-渡辺プロとその時代』新潮社、2006年
・軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』文春文庫、1995年
・松下治夫「芸能王国 渡辺プロの真実」 ISBN 9784903853079|
・Wikipedia
・日本テレビ スーパーテレビ「今明かす解散の謎・キャンディーズ 3人娘封印された真実」
・キャンディーズ「卒業アルバム」


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Last-modified: 2014-07-21 (月) 11:01:47 (1044d)