このページではキャンディーズ・ヒストリーとして東京音楽学院〜キャンディーズ・デビュー〜解散までを纏めたものである。

当時のキャンディーズは芸能界の中でも特別な存在だったように思う。 

1972年(昭和47年)4月: NHK『歌謡グランドショー』のマスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)として「キャンディーズ」が誕生しました。
1973年(昭和48年)9月1日 「あなたに夢中」でレコードデビューし、1975年(昭和50年)2月21日: 5枚目のシングル「年下の男の子」で初の大ヒットを記録してから人気は一気に上昇しました。
1977年(昭和52年)7月17日: 日比谷野外音楽堂でコンサート中に突然の解散宣言をしてから、1978年(昭和53年)4月4日: 『ファイナルカーニバル』(後楽園球場 / 55000人)をもって解散するまで ファンとスタッフと3人が「キャンディーズ」を最高のアーティストに創りあげていった。

下積み時代からデビュー。デビュー前からスタッフからそんなに売れると思われていなかったと言われる。

後年、穂口氏は次の様に語っている。
「キャンデ ィーズの歌う作品がエバーグリーンになるような創作方針を貫きました。音楽は刺激だけに片寄ると一過性になり、普遍性を高めるとヒット性が下がります。作曲家として最も苦労した点は、3次元の広がりと時間軸との融合であり、またそのことが楽しみでもありました」「キャンディーズはピンクレディとは違います。音楽的で、上品で、そしてよりミュージシャンに近いグループです」。

と…

また、「年下の男の子」で火が着いたキャンディーズ人気に拍車をかけるように、大里氏が新マネージャーに就任した。後のアミューズの創業者。彼の戦略がこれ以降のキャンディーズを形成する。
ライブ重視。大里マネージャーは、それまでの歌謡曲的なビッグバンド編成をやめ、専属バックにロックバンドである「MMP」を起用した。
女性アイドル+ロックバンドの編成は今でこそ普通に見られるが、当時は初めてのことであり、画期的だった。

清純なキャンディーズに対し、黒尽くめのヤンキー集団のMMP。最初はファンから罵声を浴び、帰れコールを連発された。
これ以降、キャンディーズは年間100本を超すライブをこなすアイドルとなり、洋楽のカヴァーも定番となる。キャンディーズの音楽性が変貌するに連れて、MMPが必要不可欠な存在となっていく。
MMPがバックについてからは歌謡曲なんか見向きもしなかったロック少年たちが一斉に、キャンディーズだけは特別扱いしファンになった。

思えばキャンディーズは何かにつけて初めての事が多い。

・女性だけのコーラスグループは大成しないと言われていた時代に敢えて挑戦したこと。
・最初からコーラスを重視したアイドルグループであること。
・シングル「危い土曜日」での女性アイドルで始めて派手な振り付け。この時の衣装が当時一番スカート丈が短かったこと。
・年間100本を超すライブを実施したアイドルだったこと。
・初めてイメージカラーを持つアイドルだったこと。
・女性アイドルで初めて「国民的アイドル」の称号がついたこと。
・女性アイドルで始めてコントに挑戦したこと。
・女性アイドルで始めてロックの専属バックバンドが付いたこと。
・女性アイドルで始めて全国規模の草の根型私設ファン団体「全国キャンディーズ連盟」を持ったこと。
・女性アイドルで初めてアルバム全曲自作自演でのアルバムレコードを製作したこと。
・芸能界で初めて人気絶頂のときにステージ上でファンを前に解散を宣言したこと。
・芸能界で初めて事務所に自らの意志を貫いたこと。
・芸能界で初めてファンとスタッフと事務所の三者が協力してオリコン1位を獲得するという偉業を成しえたこと。
・女性アイドルグループとして単独で始めて後楽園球場でコンサートしたこと。
・1978年4月7日にTBS系列で解散コンサートが放送されたが、単独の日本人アーティストの音楽番組では放送過去最高記録、平均視聴率32%を樹立し、未だ誰にも破られていないこと。

こうして見るとキャンディーズはあらゆる面で実験的な要素が強いアイドルではなかったか。
また、キャンディーズの歴史を見ると歌謡曲の芸能史をそのまま映しているようにも見え、芸能評論家からもキャンディーズの終焉が戦前、戦後からの歌謡界の歴史の終焉を表している。
と明言している。事実、キャンディーズが解散した1978年以降、芸能界、アイドル界の流れが明確に変わったし、アイドルが自由に自主性を唱え、結婚、引退が気軽にできるようになった。

また、こうした歴史の変貌もこのキャンディーズ・ヒストリーの中から感じとって頂けたら幸いです。
特に若年のファンの方々には当時の「アイドルが自己主張することができなかった時代」というものが想像もできないかも知れないが、そうした事実があった芸能界の歴史の中で如何にキャンディーズが意志を貫いて成し得た事が今の自由な環境のアイドル界に繋がっているかを感じとってくれたら幸いかと思います。

ここではキャンディーズ・ヒストリーとして東京音楽学院〜キャンディーズ・デビュー〜解散までを纏めたものである。
キャンディーズの資料は意外にも少ないため、雑誌や映像、記録として残っているものから年表を纏めていくものであります。

この度、長年交渉してきたキャンディ・ベースの管理人斎藤様から特別にヒストリーの情報共有許諾を頂きました。
この貴重資料はタマコシ様と数人の大先輩方々の努力の賜物であり、記録です。しかも既に作成に関係した数名の大先輩方が他界されており、関係者様全員の承認も難しい状況になっている今、現在所有しておられる斎藤様の一存で許可を頂いております。
このような事情があります関係で、このヒストリーの情報に限っては記事の2次利用を固く禁止致しますので御了承をお願い致します。

この大先輩の記録に CAN WIKI は記事の追加だけをしていきます。キャンディ・ベースの元記事は黒文字、CAN WIKIは青文字で追加します。

※キャンディ・ベースの資料を作成した大先輩の方々に感謝し、お名前も記載したいので御存知の方は御連絡をお願い致します。

1.キャンディーズ・ヒストリー

東京音楽学院〜キャンディーズ・デビュー〜解散までの主な出来事をまとめてあります。

※見たい年号をクリックすれば詳細画面に遷移します。
 画面の体裁は後日整えていきますので、現状では情報公開第一に考えてリリースしてます。
 元記事に関しては特別な事がない限り原文のまま掲載しています。そのため一部にリンクが貼られているような箇所がございますが、リンク先情報については許可されておりませんのでリンク先名称等が残ったままとなっている事をご注意ください。

年号主な出来事
昭和44〜昭和46年(1969〜1971)奥多摩のキャンプ場で3人が出会う。この時、ランは中3、ミキ中2、スー中1
※これは後年事務所の創作であることが判明。
東京音楽学院入学し、奥多摩のキャンプ場で夏季合宿を行う。スクールメイツに入る。
昭和47年(1972)4月 NHK「歌謡グランドショー」のマスコットに起用される。「キャンディーズ」と命名される。スー「突撃!ヒューマン!!」に出演
昭和48年(1973)4月「8時だヨ!全員集合」のアシスタントになる。
9月「歌謡グランドショー」で初めて『あなたに夢中』を披露。『あなたに夢中』発売。銀座山野楽器で初のサイン会
昭和49年(1974)1月『そよ風のくちづけ』発売。
3月代々木・山野ホールで初ライブ。800人のファンが集まるも盛り上がりに欠ける課題の残るライブとなった。
4月『危い土曜日』発売。
7月大阪郵便貯金ホールで初リサイタル。チケットが売れず2回公演の予定が1回になった。それでも客席は6割しか埋まらなかった。
9月『なみだの季節』発売。
昭和50年(1975)1月 日劇ドリフターズショーにゲスト出演。パンフレットの表紙にキャンディーズのクレジット無し。
2月『年下の男の子』発売。ランがセンターになる。念願の初ヒット曲となり、記念してファンと皇居一周マラソンイベントを開催。
4月東京・文京公会堂にてコンサートを開催し超満員となる。
6月『内気なあいつ』発売。
9月『その気にさせないで』発売。
10月 蔵前国技館にて1万人カーニバル開催。
12月『ハートのエースが出てこない』発売。東京・大妻講堂にて「75年ありがとうコンサート」開催。終演後、ファン全員と握手会。NHK紅白歌合戦初出場。『年下の男の子』を唄う。
昭和51年(1976)1月 日劇ドリフターズショーにメインゲストとして出演。
3月『春一番』発売。大ヒットとなる。日劇で初のミュージカル「スタンバイOK」上演。
5月 『夏が来た!』発売。
6月 文化放送「GO!GO!キャンディーズ」スタートする。
7月 日本短波放送「キャンディーズ情報局」がスタートする。大橋照子アナとのやり取りが評判になる。全国縦断コンサート「サマージャック’76」ツアー始まる。
8月 全国キャンディーズ連盟(全キャン連)旗揚げ。
9月『ハート泥棒』発売。
10月 蔵前国技館にて「キャンディーズ・カーニバルVol.2」開催。前年を上回る盛り上がりで大成功。同日「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」放送開始。
11月『哀愁のシンフォニー』発売。キャンディーズ大人化計画が始まる。
12月 NHK紅白歌合戦出場。『春一番』を唄う。
昭和52年(1977)1月 日劇ドリフターズショーに出演。
3月『やさしい悪魔』発売。吉田拓郎作曲とアンルイスがデザインした衣装が話題になる。振付の「デビルサイン」が流行する。
4月 アルバム『キャンディーズ1 1/2 /やさしい悪魔』発売。初の3人の自作曲が収録される。
6月 『暑中お見舞い申し上げます』発売を記念して「朝霧高原バスツアー」開催。バス22台1300人が参加する前代未聞のファンの集いとなる。『暑中お見舞い申し上げます』発売。
7月 日比谷野音で「サマージャック’77」ツアー初日公演。ここで突然の解散宣言が行われる。解散についての緊急記者会見。
8月 全国キャンディーズ連盟も緊急集会を開催。3時間熱い議論が交わされ、白熱した討議から生まれた結論は「解散支持」であった。
9月『アン・ドゥ・トロワ』発売。
10月 キャンディーズ・カンパニー結成。解散までの活動のバックアップを誓う。全キャン連がラジオで「ビバ・キャンディーズ宣言」を行う。
12月 『わな』発売。初めてミキがセンターに。5枚組アルバム『キャンディーズ1676DAYS』発売。東京・椿山荘にてクリスマス・ファンの集い開催。新宿で大橋照子アナらとファンの集い開催。全国キャンディーズ連盟が『三つのキャンディー』を披露した。NHK紅白歌合戦出場。『やさしい悪魔』を唄う。
昭和53年(1978)1月 全国12都市でファンの集い開催。『微笑がえし』発売。ファンとスタッフと三人が一丸となって念願の初オリコン1位を獲得する。
3月全国8都市で”サヨナラコンサート”を開催。どの会場も涙と熱狂に包まれる。
4月 後楽園球場にてファイナル・カーニバル開催。5万人を前に51曲を熱唱。最後の伝説を作る。

※キャンディーズの小部屋様のヒストリーを参考にさせて頂きました。

2.出典、参考文献

・wikipedia
・キャンディベース
・CANDIES HISTORY
・月刊YOUNG 71年6月号〜78年5月号


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Last-modified: 2019-11-24 (日) 16:48:27